【Myself】キャリアについて考えること 2

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少額で「ロシア」に行ける、と聞いた時、あまり深く考えず、
とにかく行くことに決めたのを今でも覚えています。
いまでいうNPO的なボランティア活動のメンバーとして、
ある団体に参加することになったのです。

行き先は極寒の地。

海外旅行もまともにしたことのない私が初めてのパスポートで行ったのがロシアという国でした。

なぜ、そこに行きたかったのかにはいくつか理由があります。
私にとって、ロシア文学やロシアの芸術は壁の向こうにある神秘的なものに映っていました。

さらにゼミでの活動の中で、「ソ連は崩壊するか」というお題のパネルディスカッションをやる予定にしていたら、その夏にソ連はロシアになってしまうという出来事があり、印象的な国の一つだったのだと思います。

はじめて乗った外国の飛行機がアエロフロートでした。

あまりに機体も座席も汚くて驚いたことも、
今でいうキャビンアテンダントに男性がいたりすることも、
出てきた機内食の箱に「German Army」と書いてあったことも、
空調の吹き出し口から白い霧のようなものが出ていたことも、
ランディングの衝撃で、頭上の荷物格納の扉があいてしまったことも、
下手をするとそれが海外の飛行機の常識だと思ってしまったかもしれません。

そんな思いをして辿り着いたハバロフスクという町は本当に本当に寒い町でした。
そこからシベリア鉄道に乗って、ウラジオストックへ向かいました。
ウラジオストックはソ連時代、「不凍港」として重要な軍事拠点であり、
外国人はもちろんのこと、ソ連の人でも一部の人しか訪れることのできない町でした。

 

そんなところに足を踏み入れたのです。

旅の目的は、孤児院、老人ホーム、独居老人宅に生活支援物資を届けるというものでした。ソ連が崩壊して、中央から遠くにあたる極東地区ではそういった弱者に対する支援が滞っていたのです。

今、考えればそれですべてが救えたわけではないこともよくわかります。
もしかしたら、私たちの自己満足だったのかもしれません。

それでも目を輝かせながら話をしてくれたおじいちゃんや、おばあちゃん、そして子供たち。そんな人に触れて感じたことは私たちは恵まれているという事実です。
(「■生きるのは難しいこと?」でも言及していますが。)

 

そのころの日本は今と違ってキラキラしていました。
私たちの支援をしてくれた日本語を話せるロシアの大学生は、日本語を覚えることで、
日本で仕事をして、豊かになりたいという夢を描いていました。
勉強家で、ウォッカ好きの学生たちが今、どんなことをしているのだろう、
と時々考えたりもします。

テレビや新聞で知る世界と、
大学で勉強して見えた世界と、
この目で見た世界は、

似ているようでとても違いました。
まだまだ世界は遠いところにあったのだと思います。

もっともっと知りたいという気持ちから、
ジャーナリストになりたいと思うようになりました。

ベルリンの壁の崩壊、
ソ連の崩壊、
中国の天安門事件
湾岸戦争、

本当に大きく世界が動くときにまさに学生だった私は、
世界で起こっていることを自分の目で見て、伝えたいと思ったのかもしれません。

でも、世の中はそんなに甘くはありません。
私は最初の就職で自分のなりたいものにはなれませんでした。


まだ、つづく、みたい。