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【Myself】記録と記憶

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あれから2年が経った。

忘れてはいけないと思いながら、記憶はだんだんと薄れていく。
そのために記録があるのだろう、と思っている。
その日のことを書いた日記を引っ張りだしてみた。
あの時、私は何をして、何を考えていたのかを感じてみようと思ったから。

直接の被害はほとんど、なかった。
計画停電の影響と、ちょとだけ、会社に通うのが大変だったことくらい。
なのに、毎日、毎日、ニュースを見て、どんどん気持ちは沈んでいたみたい。

どうやって今の状態に戻ったのか、正直、今でもあまり、よく分からないけれど、
日々に忙殺されて、やはり、記憶はどんどん曖昧になっていくのだろうと思う。

だからこそ、その日を、その瞬間を切り取るためにも記録が必要なのだろういうことを実感しています。

そして時々、引き出しから引っ張りだす。
忘れては行けないことを思い出すために。
思い出すことで、自分をとりまくものに感謝するために。

当たり前にそこにある、と思っているものは、
意外と脆い土台の上にある、ということを気づかせてくれるから。

 

 


【あの日の日記−2011/3/11の記録】
(※そのときの個人名のみ伏せました。あとはあのときの文章そのままにしています)

 

もしかしたら、こんな経験はもう二度とないかもしれないから、とりあえず、記録する事にした。


東京という街の建造物は本当に頑丈らしい。
震度5が来ても周りの景色は全く変化がなかった。
まるで何もなかったように。
地震があったことすら忘れさせるように。

陸の孤島になってしまったお台場。
外は寒いし、雨が降ってきたので、とりあえずオフィスに戻る事に。
このとき、私がした判断は後で、スタッフの空腹を救う。

避難した場所からオフィスに戻るときに、可能な限り、
コンビニで食べ物、飲み物を確保しましょう、と声をかけて。
私もお菓子やら、カップ麺やらを購入。
こんなに買い込む必要はないとどこかで思いながら、
いつ、動けるか分からないのだから、いいはず、と思って。

さっき、一生懸命に12Fのオフィスから階段で降りたのに、
今度は階段で自分のフロアに戻る。ここで一往復目。
降りるのは簡単なのに、上るのは、しんどかった。
まさか、こんなところで、体力作りをするはめになるとは。

やるべき仕事はもちろんあったけれど、全く仕事にならず。
ひとつは自宅に電話が全く通じなかったら。
携帯も、固定電話も壊滅的。

このとき、一番、頼りになったのはtwitterと、mixiだった。
私の会社ではネットワークには全く影響がなかった事もあって、
情報はほとんどネットから。
ネットの存在にはもちろ影の部分とか、いろいろ問題点もあるけれど、
本当に頼りになったのは事実。

スタッフが会社のビルの1Fにある公衆電話が一番つながりやすい、
と言っていたので、意を決して、二往復目に挑戦。
足が重いかも、と思いながら、心配の方が先に立って。

1Fに降りると台場に来ていた人々で行き場のない人たちが、フロアにたくさん座り込んでいた。
その中には子供を連れている人も。
私に権限があれば、会社のフロアを公開したいくらいだったけど、
機密情報とか、お客様との契約とかを考えると難しい事は想像がつく。
見て見ぬ振りをしなければならない切なさを胸に、自宅に何度も電話する。

思いのほか、簡単に電話はつながった。
家人はみな、無事で、特に大きな問題はなかったとの事。
問題なのは私が家に帰れない事くらいだった。

車でむかえに来てもらうという選択肢もあるけれど、
渋滞がひどい東京に入ってくる事は自殺行為。
仮にほんとに迎えにきてもらうとしても、最終手段で、夜中とか、朝だな、と。
そんな会話を母として。

まずはひと安心。

やっぱり上りの階段は辛かった。

会社からはテレコムセンターの火事がよく見えた。
最初は小さな白い煙だったのに、次第に煙が大きく、そして黒くなっていくのが怖かった。
東京湾内のはずなのに、絶えず海が揺れていた。
いつもとは違う世界だった。

ちらほら帰るといい始める人が出てきていた。
15km、30kmを歩いて帰るといい、オフィスを出て行く人がいた。

私にはその決断は出来なかった。
28.2km。
私が安全にひとりで歩いて帰れる距離には思えなかった。

そして、コンビニまでのお使いで12Fの上り下りの三往復目に挑戦。
もう、ふくらはぎがパンパンだった。
ごめんなさい、普段から、体力作りします、と心の中でつぶやいた。

1Fフロアは凄い事になっていた。
人が溢れていた。雨、風がしのげて、コンビニが近くて、トイレがある。
そんな場所に人は集まっていたのだ。
見た事もない、すごい光景だった。
本当にここは人工の埋め立て地で、分断されるとなにも出来ない。

当然、補充が来ないので、コンビニの棚は空っぽだった。
何か口に出来そうなものはすべて片付いていた。

さっき、少し、買いだめをしておいてよかった、と思った。
完全に空腹にならずにすんだ。

少なくとも会社にいれば、トイレにも困らないし、食べ物もまだある。
しかも暖房が入っている。横にはなれなくても眠る事も出来る。

どうしようか、悩んでいるところに、
途中で帰ったメンバーからメールが届いていた。
地下鉄の大江戸線が動き始めたと。
レインボーブリッジを歩いて渡って、浜松町から
練馬、光が丘まではたどり着ける。
ここから歩いて帰るのは辛くても、練馬からなら歩いても帰れるし、
上手くいけば迎えに来てもらえる。

さて、どうしよう。
しばし悩んだ結果、私は歩いて、レインボーブリッジを渡ること決めた。

もし、ひとりだったら、歩いて帰るという決断はしなかったと思う。
10年来のチームのメンバーと、最近、一緒に仕事をしているメンバーの
3人で会社のビルを出る。

決断が正しいかどうかなんか、そのときは分からなかった。
いつ帰れるか、わからないまま、そこで時間を過ごすことが我慢できなかった。
うつうつとした気持ちをどうしたらいいのか分からなかった。
たとえ、今、大丈夫でも、次の瞬間はどうなっているかは分からない。
そう考えると、ここでただ待っている事が辛かった。
1分、1分が長く感じた。

明日になってJRが動き出すのか、始発で帰れるのか、誰も分からなかった。
それならと、可能性がある選択にかけた。


会社のビルからレインボーブリッジを通って、浜松町まで向かう、が最初の目標だった。

途中で、移動状況をmixiで実況中継。
電話はまったくつながらなくても、ネットワークはつながる。
iPhoneが私の生命線だったのだと思う。

実況をしてたのには2つ意味があった。
途中で何かあっても、何人もの人が私がどこに向かって、
どこまでたどり着いたかを知っている。
そして、みんなのコメント、「いいね」が頑張る勇気になった。


そんな覚悟をよそに、レインボーブリッジからの景色はいつもと変わらなかった。
きらびやかで、にぎやかで、そして、硬質な光。
こんな状況でこんなにも電気を無駄に使っていいのだろうか、とか、
ここで大きな地震が再度、やって来たら、東京湾に沈むのか、とか、
思ったとか、思わなかったとか(笑)。

でも、その時のレインボーブリッジをたくさんの人が渡っていた。
笑い声もたくさん聞こえた。
だから、あまり悲壮感を感じずにすんだのかもしれない。

ちなみに本来はレインボーブリッジは夜は歩けないらしい。
自殺者とかがいて、危険だから。
でも、非常事態だから、という事で通れる事になったとのことで。
この風景を歩いてみる事は、もしかしたら、もう、一生ないのかもしれない。

途中で、運行状況を確認すると、都営三田線も動き出したとのこと。
それなら、そっちに乗って西高島平に行った方がいいとの判断で、
目的地を田町(三田)に変更。

こういう事が出来るのもネットの力。
何もなかったら、きっと何の判断も出来なかった。
普段、歩きなれないところを迷わず歩けたのも、仲間とネットの力。

何か凄い事をやってのけたような気になってたけど、
歩いた距離は約4km強で約50分。
たぶん、私にとってはそれが限界だったと思うから、とても幸運だったと思う。

海を渡った田町の駅は台場よりもまだにぎやかだった。
コンビニにもまだモノがあった。
歩いている人があまり悲壮には見えなかった。
ああ、ここはまだ生きてる街だと感じていた。

さらに運がいい事に三田線がホームに止まっていて、すぐ乗る事が出来た。
チームメンバーは板橋区役所駅でおりて、無事に家に着いたらしく。
私は、西高島平まで。
普通の満員電車よりもはるかに、はるかに混んでいて苦しかったけど、
少しでも家に近づいていることで気持ちは徐々に落ち着いて来たのだと思う。

実は移動の途中でいとこと連絡を取っていた。
私の従兄弟は大塚近辺で働いている。
家は神奈川の海方面。絶対に帰れないだろうと。
であれば、一緒に家に帰ったらどうだろうかと。
これもものすごくついていて同じ電車に乗れたらしく、西高島平で合流。

顔を見てほっとしていた自分がいた。

さらに母が車で迎えに来てくれて、3人で自宅へ。
長い長い冒険が終わりに近づいていた。

正直、自分のとった行動が正しかったのか、分からない。
会社で一晩をすごして、落ち着いて帰って来た方がほうがいいという意見もあると思う。
それでも私は帰って来てよかったと思っていた。
安心できる場所にいることがこういう非常事態のときには大事かもしれない。

そして、今回、分かったこと。

本当に東京に大災害が起こって、それが仕事中だったら、
家族に会うために、30Km近くを歩く覚悟がいるということ。
(少なくとも、その体力がいるってことだね)
大切な人たちの生死を確認しようと思ったら、もっと大変だということ。
そういうことを選択して生きているのだ、なと。
そんなリスクを取って生きているなんて、普段は感じたりしないこと。
でも、そういう事なんだな、と。

だからこそ、大切な人たちとの時間をもっと、もっと、
大切にしなきゃいけないのかもしれない。
そんな事を考えた夜だった。

でも、本当にこの災害の凄さを知ったのは、それからだった。

家について、ご飯を食べ、ほっと一息をついた頃、日付が変わっていた。
そして、初めてテレビで、この地震がどんなモノだったのか、
を目にして愕然とする。

こんな事が起こっていいのか?と自分の目を疑った。
地震の酷さもさることながら、恐ろしい津波の映像。
まるで映画のワンシーンを見ているみたいで、リアルな感じがしない。
本当にこれが日本の一部で起こってるのか、と。
ただ、それをじっと見つめる事しか出来なかった。
あまりに想像を絶するその場面に言葉すら、出てこなかった。

それでも、身体は疲れていて、横になったら、気づくと寝ていた。
熟睡はまったく出来なかった。
一晩中、緊急地震速報が鳴る。
その度に目が覚めて、揺れを感じる。
どうなってしまうのだろう、という不安が頭をよぎる。

あまり熟睡できずに目が覚めると、家に泊まっていたいとこも同じ状態だったようで。
この状況で熟睡できないのは仕方ない。

普通の朝ご飯を一緒にたべて、いとこを送り出す。
無事にお家にたどり着けますように、と願うしかない。

私たちは当面のものを買い出しに。
ただ、このときはまだ、そんなに凄い事になるとは、
想像もしていなかったので、お水とか、お米とか、
乾物とか、そういったものだけでも確保しようとそういうつもりで。

普通にお昼を食べて、普通にテレビを見て。

雲行きが怪しくなって来た、と感じたのは、
福島原発の事件からだった。
たぶん、私が最初から悲観的だったのは、英語のニュースを生で見たり、
活字を読んだからだと思う。
衝撃的な記者会見の何時間も前から、相当、ヤバい状態だと気づいてた。


関東圏の電気が足らなくなる。
普通の生活はできなくなるな、と言うのが最初の印象だった。

そこからは相当、暗い気持ちだったと思う。
妙な絶望感もあった。
万が一、放射能漏れなんかがあったとしたら、どんな酷い事に、と考えると恐ろしくなった。

お腹がすかなくなった。
それでも生きる為に食べる。

横になる。
眠ったり、目が覚めたりを繰り返す。

明日、目が覚めたら、みんな夢だったら、と。
目を無理矢理、閉じたりしてみた。

何かを知っていることは、とても有利な事ではあるけれど、
どこかでとても、苦しいこと。
知らなければ、辛くない事も、世の中にはある。

明日になれば、それだけが、救いだった。