■言葉はそれほどに自由なのか? 〜2017年、また同じモノを見かけるとは〜

ずいぶん前にブログに同じタイトルの記事を書きました。
もう、それは懐かしい、懐かしい出来事だと私は思っていたのですが。
そんなものにもう出会わないといいな、という淡い期待は、淡い期待だったということです。

あの頃、私は羽生結弦アンチの言葉の暴力にこの言葉を投げかけました。
今はフィギュアではなく、バレーボール界隈で同じようなものを見かけるようになりました。

確かにSNSの発言は個人のものです。
こんな言葉は使ってはいけないという制御があるわけではないのです。
何を言おうが自分の勝手でしょと言われたら、はい、そのその通りですと私も答えます。

そう、言葉にする自由はあります。
でも誰もが見ている場所で紡がれる言葉は誰かが見るのです。
その言葉を見て、共感する人もいれば、反感を持つ人もいる。
怒ったり、悲しい気持ちになったり、感情が動いてイライラした気持ちになる人もいるんです。

嫌なものは見なければいいじゃない?っていうけれど、同じ趣味を持っていて、TLを作っていると完全にその言葉を排除することは難しいでしょ?

自分が言いたいことを言う自由があるのと同じように、受け取った相手がその言葉に対しての意見を言葉にすることも同じように自由なのです。

自分が誰かに向けて人を傷つけたり、貶めたり、卑下するような言葉を使ったら、それを大事にしている誰かにとっては不快だととられるだろうな?ということぐらいは想像がつくと思うのです。
見なければいい、とか、そういう問題じゃないんです。

大人になってもそんなこともわからないのかな?とそれはとても残念です。

強い言葉を使ったら、自分にそれは返ってくるんです。
それを避ける方法はないのです。

なんでも自由にしたらいいと思いますよ。
でも、それは批判を受けない、反論をされない、感情をぶつけられないということを保証するものじゃないのだとわかっていればいいんじゃないでしょうか?

私は貴方の言葉の数々が不快です。

事実でもないことをまるで事実かのように言葉にすることも。
自分がすべてを分かっているかのように振るまうことも。
重箱のすみをつつくような欠点をあげつらうことも。

こんなことを言われたらきっと頭に来るでしょう?
それと同じことを国を背負っているアスリートにだからしていいというロジックは私には理解できません。

だから、言葉にし続けます。
その言葉の数々は不快だと。

貴方も言うように、言葉にするのは私の自由だから。
そして、いつでも反論を受ける覚悟はあるから。

言葉はそれほど自由じゃないんだよ。
分かるよね、大人なら。