■羽生結弦という魂 -国民栄誉賞授与に寄せて-

とうとうここまで登りつめたか、というのが素直な感想でした。

最初に彼を見たのはニースのロミオの演技でした。
迸る情熱で滑りきった4分半は私のそのあとの人生の一部を劇的に変えました。
「この子は何かを成し遂げる」と漠然と感じたのだと思います。

でも、その時は、ソチに間に合うとは思っていませんでした。
オリンピックには出るだろうけれど、金メダルにたどり着くとはまでは気づけなかったのです。
私の予想を裏切って、急速に成長した少年は、あっという間に日本を制し、一つ目のオリンピック金メダルを2014年に手にしました。
棚ぼたのような金メダルでした。
 
キッラキラの金メダルを手にしてもなお彼は悔しいと言っていました。
そう、望んだ形の勝ち方ではなかったのです。
誰もがいい演技をした上で、勝ちたいと思っていたから。
 
そういう負けん気がとても好きです。
勝ち続ける人にはそういった勝つことへのこだわりがあるのでしょう。
そういう人しか勝ち続けることはできないのかもしれません。
 
彼がソチで金メダルを取ったことと、被災したことには少なからず因果関係があると思っています。
あの時、彼がその立場に追い込まれていなかったら、彼はそこまで飛躍しなかったのかもしれません。
彼は若干17歳でたくさんの人の希望を体現する存在にならざるを得なかったのです。
 
その辛さを吐露したこともありました。
急成長をやっかまれたこともありました。
さらに怪我や病気という壁を何度も乗り越えて、なお、その強さを見せてくれる存在です。
 
有名になればなるほど、結果を出せば出すほど、彼を知る人が増えます。
有名にることは「バカに見つかること」と言った芸能人もいました。
多くの人に愛される彼は、コンテンツとしての価値も高く、それを消費しようとする大人に巻き込まれることも。
揺るがないその強さを妬み続ける人たちから誹謗中傷されることも。
 
それでも彼は揺らぎません。
 
自分を大事にしてくれる人々のために、
自分を応援してくれる人々のために、
故郷で自分を育ててくれた人々のために、
多くの彼を支えてくれる人々のために、
 
自分が持てる武器を増やし続け、その賢さで先手をとり続けています。
 
それが彼が成長する中で、手にしてきた「羽生結弦という魂」そのものなのだと思っています。
 
ふたつめの金メダルはさらに彼に新しい力をもたらしました。
その一つが国民栄誉賞というものなのだと思っています。
 
受け取ることに意を唱える人もいることも、それすらも人々の政争の道具になっていることも、
彼は全て分かった上で、この決断に至ったのだと思います。
 
それこそ「羽生結弦」であることを可能な限り続けていく決意とともに。
その存在の尊さを適切に表せる言葉をもう私も見つけることができません。
 
そんなものを背負わなくていい、大人はそう感じます。
 
最近の彼の行動から感じることは、背負っているという感覚ではないのかもしれませんね。
彼自身が理想とする「羽生結弦という存在」に近づいているだけで。
それが彼の選ぶ人生なのでしょう。
 
これからも彼はその魂を磨き続けるのでしょう。
私はその姿を何度も、何度も眩しいと目を細めながら見ていくのだと思います。
 
もう、心配がいらないくらい大人になったんですよ、彼は。
どんな負のエネルギーも乗り越えて、それを言葉できちんと私たちに説明できるくらい。
 
そんな生き方ができる存在と同じ時代を生きることができたことにただ感謝しかありません。
生きていてくれてありがとう。
夢を見せてくれてありがとう。
 
君の存在は自分の生き方を問い直す鏡になっています。
その姿に恥ずかしくない自分でありたいと。
 
これからも様々な逆風が吹き荒れるでしょう。
彼の周りが静かになることはないと思っています。
 
でも、彼は大丈夫。
そう、信じるにふさわしい道のりを彼は歩いてきています。
それを実感する授与式でした。
 
和装をまとった凜とした姿は23歳とは思えない風格をまとっていましたね。
もう、かっこいいとか、可愛いとか、ではなく神々しいとすら思っていました。
 
大人になるということは年をただ取ることではないと彼に教えられた気がします。
私もかっこいい大人でありたいです。

幾つになっても。